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三国志が長く戦われてきたいきさつに劉備の存在が原因じゃないかと思って書きました

なぜかっていえば、劉備が優柔不断であっちの太守、こっちの太守、最後には蜀まで逃げてしまったからではないかな?
運よく将軍・軍師と素晴らしい人材が集まったことで戦争が長引いたと思う(自分の説)
のですがどう思いますか?

  • 質問者:namikun
  • 質問日時:2008-11-29 10:10:27
  • 0

回答してくれたみんなへのお礼

歴史の見方はいっぱいあるけど、このドラマは型にはめないで楽しみたいですね

参考になりました、ありがとうございました

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中国を治めるのには強力な中央集権が必要です。
従って中央集権体制が崩れると簡単に戦乱になってしまいます。

その中で三国時代は決して長くはありません。
戦乱としては春秋戦国時代の方が遥かに長いです。

また、劉備は蜀の国を建てたといっても所詮は地方軍閥に過ぎません。
ましてそれ以前は根拠地もない食客です。
知名度と歴史上の重要度は非常に乖離していると思います。
(三国志演義の面白さを否定しているわけではありません)

===補足===
「演義」であること前提の質問であれば見当違いの回答で申し訳ないです。

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戦乱が長引いた原因が特定の個人にあるというのはいいすぎでしょうが、
劉備という奇人が時代を作ったのも確かです。
演義の中の清廉潔白な聖人君子というものが虚像なのはもちろんですが、
逆に劉備という人物の本質はよく分からないんです。
三国志中の裏切りの代名詞と言えば呂布ですが、
劉備のほうがよほど裏切りを繰り返しています。
劉備と関わって滅びなかった勢力は、結局、曹操と孫権だけ。
諸葛亮と出会うまでの劉備は曹操の回し者というくらい、
曹操の勢力拡大に一役買っています。
これは優柔不断とかいうレベルではありません。
劉備と関わって不幸になってしまった勢力・・・公孫瓚、陶謙、呂布、袁紹
献帝もここに加えてもいいでしょう。
劉備が引っ掻き回したおかげで、曹操の華北統一が順調に進んだと考えれば、
戦乱を長引かせたというより、むしろその逆だったと言えるかもしれません。
結局、戦乱が長引いたのは、諸葛亮のせいとも思えます。
と、そんな疑問を抱いているあなたにお勧めの本が酒見賢一の『中国雑話 中国的思想』http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%9B%91%E8%A9%B1-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%9A%84%E6%80%9D%E6%83%B3-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%85%92%E8%A6%8B-%E8%B3%A2%E4%B8%80/dp/4166605968/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1228039066&sr=1-1

  • 回答者:泣き虫孔明 (質問から1日後)
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漢の末期から三国時代っていわゆる中華文明が飛躍的に拡大した時期でもあるんですね。
三国志を読んでいるとよく「中原」って言葉が出てくるんですが、それって黄河中流域のことで(広く見ても黄河中流域と長江の間の範囲)、呉が政権を建てた長江下流域や蜀が拠った四川盆地なんて辺境もいいとこだったんです。
そうした辺境に迫害や戦乱を嫌った人々が集まることで文明が拡大していったわけなんですけど、なんせ遠方で天険でもあるのでお互いに簡単に手を出せなくなってしまったというのが実際のところだと思います。

我ながらつまらない回答だなぁと思いつつももうちょっと私見を。

劉備のもとに人が集まった理由って劉備が魅力的な人物であったのもあるんだろうけど、劉備が荊州に地盤を築き始めた頃には曹操はすでにかなりの政権基盤を確立しており、孫権は土着の豪族の集合体政権のような形で新入りが成り上がるのは難しく、反曹操を明確に掲げたことで曹操に嫌悪感を抱く人物が集まりやすかったというのもあるのでしょうが、最も出世しやすい環境があったからだとも考えます。

  • 回答者:三国志バカ (質問から16時間後)
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んんん。
まぁ その考えもありですよね。
ってか 中国は多民族国家ですから 考えの違いとかがありますからね。
そこも長引いた原因のひとつだと思っています。

  • 回答者:匿名希望 (質問から15時間後)
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直接の原因を言えば、天下三分の計だと思います。
ただ、なんで天下三分の計が必要になったかです。
あの当時、漢は滅びかけていたなかで、董卓がさらに拍車をかけたことによって、最早国として完全に疲弊していました。
そこで、一度に中国すべてを統括しても、おそらく個々の内紛を防ぎきることはできなかったと思います。
中国が3つに実質的に分かれたことにより、国として安定し、その結果、多少の困難には対処できるくらいの国力を蓄えることができた。
戦争としては確かに長引いたかもしれないけど、中国がすぐに、魏あるいは呉に支配されていたら、小さな内紛が途切れることなく、国として疲弊し続け、結果、それほど長く統治はできなかったんじゃないかと思います。

また、関羽や張飛などの豪傑の助けを得ることができたのは運ではなく、劉備の人徳によるところが大きい。優柔不断に見えるのは、義に厚い男だったから。
劉備の存在が戦争を長引かせた要因の一つかもしれないけど、それはどの皇帝にもいえること。結局、実力が伯仲した結果ということでしょう。最終的に三国志での戦争が終わったのはどの初代皇帝も没したあとですからね。

  • 回答者:とくめい (質問から5時間後)
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演義の流れからするとそんな感じですね。
劉備がそそのかして孫権を動かしたのだし、蜀を建てて三国分立させたのだし。
でも曹操は戦争マニアみたいなところがあるので、
もし統一をしても国外に兵を向けたかもしれませんし、
曹操の死後、魏から晋への流れがその後の中国の大分裂時代を生んだと考えれば
劉備のせいとだけではないと思います。

しかし善人劉備より、あちこちかきまわした迷惑な男劉備というほうが好きです。

  • 回答者:所轄量米 (質問から4時間後)
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特にそういう原因じゃなかったと思います。
元から中国には多種多様な民族があり、一つの国としてあるには難しかったからだとも思いますが。
また、魏呉蜀、その他のどの君主にしても運良く武将が集まったからではなく、人柄や民衆に慕われたりそういう政治絡みのモノも絡んでいたからとも思いますがね。
戦争が長引いたのは、国がなかなか統治されなかった事もありますが、やはり民族の対立と意思統一に時間がかかったというのも原因であると思いますね。

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三国志、「演義」ではなく「正史」を読めば、そういう感想もありかと思いますが、、、

元々一つの国家でもなく、民族も違うのですから、幾ら良い政治を行ったところで、紛争の種は、尽きません。
それは、今、紛争している地域を見れば、よく解ります。
きっかけさえあれば、種は芽吹く。。。
どの時代でも、それは同じ。。

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私はそうは思いません。中国はとても広い土地です。統一国家が出来たのは秦の始皇帝の時代が初めですが、地方や旧他国に対して圧政がひどく、崩壊しました。同様に後漢の末期も政治が乱れ各地で反乱が起きたのが原因でそれを鎮圧した魏と呉が分離独立したのです。魏が中国を統一してもまた同じことを繰り返す恐れがあったので、諸葛孔明が「天下三分の計」の考えの下劉備を助けて蜀を起こしたのです。三国がバランスをとることで国内を安定させたのです。その後、魏の軍事力で統一されますが、急激な統一よりもむしろ、統一まで時間がかかったことにより、国家としての形態や統制が整ったと見るのが妥当だと思います。やはり歴史の必然だったと思います。まあその後魏も簡単に滅びますが、次世代の繫ぎの役目を果たしたということでしょう。

  • 回答者:常識歌人 (質問から15分後)
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